少し前に稽古に来てくれた方で、僕が元々「科学」(正確には化学)の専攻だったことを知っていた方がいて、「科学をすることと武術や身体の稽古することを両立することに無理はなかったですか?」ということを質問されて、色々と当時考えていたことなどを思い出しながら話しをしたのだけれど、思うところがあって、その時答えた内容を少し時間をかけてまとめてみた
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もちろんやっていることの間には「齟齬」や「矛盾点」は何よりどうやったって「折り合いにつかない」ことばかりだったけれども、あまりに違うものすぎたので混ざりようがなく、別ジャンルの物事として学んだりしていたし、あえて二つの領域に取り組むことで、わかったことも沢山あったと思っている。
例えば、実験科学(化学)の世界にいた自分は「分子」という一つの「物質」レベルの領域で、研究などをしていたけれど、そこでの経験を通じてわかったこととの一つとして、ある一つの、ピュアな、分子一つにまつわる現象とっても「それがなぜそうなるのかわからない」、「現在の理論では簡単には説明できない」ことなどザラにあり、説明しきれない「未知」がどうしても残ってしまうということがあったりする。同時に、その部分をわからないという「?」残しつつも、その過程で新しい法則や技術(テクノロジー)の発見や応用があるということもわかった。
また、「実験」ということについて言えば一般的にどのようなイメージが流布しているのか正確にはわからないけれど、何か機械で「ピッ」っと計測して集めたデータなり何なりを集めて何やかんやしているみたいなイメージだとすれば、確かにそういう側面もあるけれど、実際にはそんなに単純ではない。例えば、現実の実験の現場には実験が「うまい」、「腕がいい」というような「巧拙」があって、それにまつわる「ノウハウ」も存在する(これはそこに恣意性が入り込む余地があることも示している)。
だからこそ自分の場合は「物質還元主義的」に身体を捉えることが尚更、「物事はそう単純になるわけがない」ということがわかるのだけれど、ここがまた厄介なところで、とりあえず「わからない」膨大な領域は置いておいて、科学がわかる・説明できる比較的「単純」かつ「大雑把」な範囲、パースペクティブに基づいて、話を推し進めてきたのが「科学」から見た「身体」の歴史なのだろうというふうに捉えている。
また、そういう前提を置いてみた上で、科学史というものを見てみると、ある一つの側面…科学・テクノロジーの進歩がそのまま身体、文化、倫理、人間性…から実は離れていった過程だということが見えてくる。例えば、物→分子→原子→陽子・電子→素粒子…物質の最小単位(それをより本質的なものとして)を追い求めるの過程は、そのまま、身体から離れていった歴史と重なるように映るようも見えてくる。
また、自分の場合は取り組んできた「武術」というフィールドが中心に「物理」、「物質」、「科学」…から身体にアプローチしていくことの限界や問題点、矛盾点…について色々と批判や問題提起を見てきたけれど、これまで話ししてきたような「(実験)科学」のフィールドにいた自分などからすると、大半は「相手(物理、物質、科学)の実体をよくわかっていないで何かしらの意見を述べている」か、「その相手(物理、物質、科学)について非常に考察され、その実体を経験を通じ捉えた上で述べられている誰かの先駆的な見解を、ソレっぽく引用して使っている」というようなケースばかりに見えてしまうのだけれど、実際の所はどうなのだろうかと常々思っている。
『よくわからないのだけど、何か違うと思います』
という動機も、直感的にそう感じるという点や捉えている角度や方向性としては大事なことかもしれないけれど、もし何かを言うなら「よくわからない相手をよくわからないまま相手にしている」ということが、自身にとってウィークとなっている可能性についてはどこか片隅に置いておくことや、ウィークとして実際に働いているならば、そうならないような取り組みをするか、その部分は相手とする対象とせず、自身の取り組まれていることの方により注力した方がいいのではないかと思っていたし、今でもそう思っている。
また、こういうことを考えたり思うようになったのは、教わっていた先生方や稽古をしてきた方々や友人との交流や影響を通じてのことであり、そういう人達がいなかったら、あまり考えていなかったと思う。