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Kotaro Morita Lab.

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  • 026. マーシャルアートについて語るときに私達の語ること

    「マーシャルアート(=Martial Art)」という言葉がどのような物事を指すのかということを考えていくと、「武術」「武道」「武芸」「格闘技」「護身術」…など様々な言葉が浮かび上がってくる。ただ、そのそれぞれの「違い」がどういうものか、馴染みのない多くの人にとって「よくわからない」のではないか。ともすれば、実際にその分野に関わっている人に聞いてみても、それぞれの違いを明確に説明することが難しいかもしれない。

    角度は少し変わるけれど、「武術、武道、格闘技….といったって結局のところ相手を傷つけたり、『暴力』と何が違うの?」という素朴な疑問が投げかけられた時、どんな風に答えることができるだろうかということを考えることがある。「暴力性」や「相手を傷つける術」という側面は「マーシャルアート」の内に確かに存在する。それは一つの事実である。しかし、「暴力と同じ」と言われると、「そうではない」、「それだけではない」ということを、そこに携わる人の多くが感じることではないだろうか。

    ではそのとき感じている「違い」をどこまで自身の経験から、相手に説明し、実際に示すことができるだろうか。自分の場合、そういう問いが常に念頭にある。

    ある故人の方で、私が携わっているペンチャック・シラットという武術の先生であった方は、晩年に遺した著書の中で、このことを『「暴力」に対立するもの…それらから「自身を守る術」、「生存の術」、「護身術」(セルフディフェンス)』という言葉で表現している。

    (ただ、この先生は”マーシャルアート”という言葉は、その響きが「現実性(リアリテイ)」から人を遠ざけ、幻想を抱かせるものとして用いることがなかったことについても述べておかないといけない。)

    世界には様々なかたちの国、社会、コミュニティ、文化圏…が存在する。そのそれぞれで、マーシャルアートが持つ、現実性や必要性や意味はその内での文脈によっても変わってくるだろう。例えば、危険な社会においては、自らの身を守ることに高い「実用性」が見出されるであろう。「エンターテイメント・興行」や「スポーツ・競技格闘技」といった、社会的な「有意性」を持つジャンルから見ると、時代性に則して社会との接点を持ちつつ存在している、一つの「在り方」のようなものが見えてくる。宗教的な行との繋がりや、舞踊、音楽など他の芸能との「交差点」に存在しているようなものもある。

    これは私自身が「日本」という国に住んでいるからかもしれないけれど、実際の戦闘、闘争を生き延びる術という観点から考えると、マーシャルアートの「必要性」は失われてしまうと感じてしまう。けれど、そのような必要性が後退する中にあっても、過去から今・現在に至るまで、そこに携わる人達の存在があり、歴史的文脈において様々な変容を経て、様々な形で「マーシャルアート」残ってきたという事実がある。

    そこには、それだけの理由や、何か人間にとっての「普遍的なテーマ」があるのかもしれない。

    「暴力」や「闘争」、それらからの「生存」を志向すること、人間が生得的に持つ本能的な内面性であり、それらがどう発露されたり、現象してきたかということについて考えてみると、一人一人の人生なり生活、広くは人類史を振り返ると様々な「出来事」がある(あった)ことが見えてくる。個人的にはそのような「出来事」に対して、「どう取り組むか」または「どう向き合うか」という分野として「マーシャルアート」が一つの意義を持っていると考えている。

    自身の周囲で、マーシャルアートに携わる先生、友人、生徒の方々と稽古をしたり、話しをすると、その一人一人がそこに何かを求め、自身にとっての意味や意義を見出していることが分かってくる。「楽しいから」「面白いから」やっている、というシンプルな表現をする人もいれば、稽古や練習を積むこととがその人の日々の生活や仕事、ひいては「人生」に影響しているというような表現をする人もいる。指導者、選手といった「職業」として携わる人もいる。ある国やその地域に根差したものであれば、その人にとっての慣習や文化、そういうレベルの『日常』の一部として取り組んでいる人もいる。

    「マーシャルアート」を通じて様々な人たちにお会いする中で、自分なりに一つ分かったことがある。それは、そこに携わる誰もが「マーシャルアート」を通じて「強くなる」ということを志向していることである。「弱くなりたい」という動機から、何かを始めるということがあるとして、その選択肢に「マーシャルアート」が入るというのは少し想像することが難しい。

    そのようなことを考える中で、ちょうど今から一年前、2025年の夏頃から、この企画について考え始めていた。

    マーシャルアートについて語るときに私達の語ること

    ”What we talk about when we talk about martial arts”

    では、「マーシャルアート」に携わる様々な方々へのインタビューや対話を通じ、そこで交わされる「言葉」を通じて、今日におけるマーシャルアートの「現在地」を記録すると同時に、広く届けていくていく試みにしていきたい。そのような仕事を通じて、多くのマーシャルアートに関わる人、そして今はまだ関わりがない人たちへも「何か」届くところがあれば幸いに思う。

    🔗 https://substack.com/@chakimolly

  • 025. 内輪

    「内輪に閉じる」というあの感じがどうにも苦手で、じゃあ「公に開く」のがいいのかというとそうでもない

    じゃあ最終的にどうしようと考えた時、「輪を広げよう」と思ってそれをとりあえず10年くらい続けてきた

    やってきてよかったと思っているし、これからも続けようと思っている

  • 024. 反(アンチ)オープンソース

    武術の流派・体系を伝えることと、その内容を『オープンソース化』することの相性の悪さというのをいつも考えている

    これは『オープンソース化』することを批判している訳ではない

    例えば、ある技術を何か一つ取って、それを動画として発信する…というようなことを考えるとする

    これはあるジャンル・分野においては大きな発展性に繋がるのだろうけれど、自分が携わっていることについては逆の力学が働くだろうということが予想される

    『コンテンツ消費』の対象として終わってしまうのが関の山だろう

    ただこれも、自分の実力のなさかもしれないし、『オープン』にするにあたっての角度が間違っているであるとか、どこかに理想的な表現の形式があるのかもしれない…

    あるいはものごとを再編集していく方法・プロセスやデザインの形を模索する、という作業になるのかもしれない…というようなことを考えたり試みたりもしている

    色々か折り合いがつく領域を日々探している

  • 023. 自己規律

    この間、自分のところに稽古に来てくれている人から「稽古をしている時に大事にしている感覚は何ですか?」という質問をされて、咄嗟に…

    『コンセンサス(consensus=合意、見解の一致、総意)を取る(取っている)』という感覚

    と答えた

    何(誰)との、そしてどんなコンセンサスなのか?

    ある時は少しわかりやすく『ルール』という枠組みかもしれない

    またある時は相手に『お伺いを立てる』行為とそこから生じる『規範』かもしれない

    そういうものを立てることや、外さないことを蔑ろにせず、ずっと大事にしているような気はする

    そもそも感覚というより『自己規律』に近いかもしれない

  • 022. 権力と暴力

    暴力には「目的」に照応した「正当化」(justification)が必要であるのに対し、権力にはそのような「正当性」が求められない

    代わりに、権力には「正統性」(legitimacy)が必要とされる

  • 021. 暴力

    個人の資質としての力(strength)を拡張、増幅したもの

    一義的には、何らかの目的を実現させる「手段」であり、それ自体が目的を持つものでは無い

  • 020. 権力

    個人の能力ではなく、複数人の間において生じるもの

    「言葉」による関係性が樹立している中でのみ成立する

    「活動」(action)に基いて、「公的領域」を存続させる

    規模の大小に関わらず、集団を集団として繋ぎ止め一定の行動様式で作動させる力

  • 019. 『研究場』というコンセプト

    稽古を深めていったり、更なる熟達を目指すならば、何が一番大事になるだろうと考えていった時の答えの一つが

    『同じようなモチベーションを持った稽古仲間と稽古を重ねること』

    という、当たり前にも思える結論だった

    優れた指導者に出会ことができ、習い、教わることができたり、自分なりに一人試行錯誤し深めていくことも大事だけれど、それが同時代に生きている「誰か」との「共同研究」になった時、その環境は全く異なる質の変化が起こる土壌になり得る

    武術・武道・格闘技の稽古の場合は、その「誰か」が「相手」にもなるから、稽古の場には大なり小なり、そして様々な質の『淘汰圧』が現われ、それに晒されることになる

    この『淘汰圧』を優劣や強弱を競う方向ではなくて、「技を深めていくこと、熟達していくこと」、そして「そこから一人一人が何かを知っていくこと」に繋げることに最近は一層フォーカスを置いている

    そしてそれを行動に移すことを考えたとき「極め技」というジャンルが、その入り口として最適なのではないかと思った

  • 018. 内的な動機・直観・歴史

    これまで色々な武術・武道の稽古をしてきたけれど、今現在自身の稽古の中心として残っているのは、『Bukti Negaraを中心とするSerak系統のシラット』を主軸に…

    ”ハワイの八卦掌”

    と

    ”柔術・グラップリングなど組み技の体系”

    になっている

    どうしてこれらが併修するものとして残ったのかずっと疑問だったけれど、Serakのシラットの歴史への理解が深まるにつれてその理由が分かってきた…

    詰まるところ、

    『Bukti Negaraと源流のSerakとの間の”ミッシッグリンク”を補う』

    ということに向かうための潜在的な動機が、その理由になっている

    どうしてこのことに気がつけたかといえば『(2〜3世代前の)Serak系統シラットにおける実戦観』、そして『当時の稽古方法や流派の系譜、他流の影響』など、その原初風景を紐解いていく作業が進んだ所が大きい

    また、そのような作業が進んだ背景には、この系統のシラットがインドネシアからオランダ始めヨーロッパ圏、アメリカへと伝わる過程でさまざまな記録やアーカイブを遺す先駆的な仕事をされていた方々の存在があったからである

    そのような背景を経て一つの系統の歴史が保存されているという事実について考えてみると、そこにある種の不思議さも感じる

    …と同時に、よくよく考えてみると自身の併修しているものとして残った「八卦掌」、「柔術・グラップリング」もそのような文化的越境と変遷を経て成立しているということに気がつく

  • 017. resemblance

    稽古会を通じて流派や体系を伝えたり、教えるということをしていて

    自分がやっていることというのは…

    『みたことがある・みたことがない』

    『しっている・しらない』

    ことについて、

    「みたことがないけれどしっている」

    「みたことがあるけれどしらない」

    ことを誰かに伝えることなのかもしれないと感じている

    「みたことがないけれどしっている」

    「みたことがあるけれどしらない」

    には、「主語」に『何(誰)』をどう置くかということや、「みる」、「しる」の意味次第で、内容は多様に変わっていくので、かなり大雑把な言い方にはなるけれど、そういう『ズレ』が一つのポイントになっているような気がする

    翻って、自身の日々の稽古していることというのも、そういうことの発見・発掘の繰り返しであるようにも感じるし、そこのレベルのことをやっているというのが現状の自分の実力だとも思う

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