「マーシャルアート(=Martial Art)」という言葉がどのような物事を指すのかということを考えていくと、「武術」「武道」「武芸」「格闘技」「護身術」…など様々な言葉が浮かび上がってくる。ただ、そのそれぞれの「違い」がどういうものか、馴染みのない多くの人にとって「よくわからない」のではないか。ともすれば、実際にその分野に関わっている人に聞いてみても、それぞれの違いを明確に説明することが難しいかもしれない。
角度は少し変わるけれど、「武術、武道、格闘技….といったって結局のところ相手を傷つけたり、『暴力』と何が違うの?」という素朴な疑問が投げかけられた時、どんな風に答えることができるだろうかということを考えることがある。「暴力性」や「相手を傷つける術」という側面は「マーシャルアート」の内に確かに存在する。それは一つの事実である。しかし、「暴力と同じ」と言われると、「そうではない」、「それだけではない」ということを、そこに携わる人の多くが感じることではないだろうか。
ではそのとき感じている「違い」をどこまで自身の経験から、相手に説明し、実際に示すことができるだろうか。自分の場合、そういう問いが常に念頭にある。
ある故人の方で、私が携わっているペンチャック・シラットという武術の先生であった方は、晩年に遺した著書の中で、このことを『「暴力」に対立するもの…それらから「自身を守る術」、「生存の術」、「護身術」(セルフディフェンス)』という言葉で表現している。
(ただ、この先生は”マーシャルアート”という言葉は、その響きが「現実性(リアリテイ)」から人を遠ざけ、幻想を抱かせるものとして用いることがなかったことについても述べておかないといけない。)
これは私自身が「日本」という国に住んでいるからかもしれないけれど、実際の戦闘、闘争を生き延びる術という観点から考えると、マーシャルアートの「必要性」は失われてしまうと感じてしまう。けれど、そのような必要性が後退する中にあっても、過去から今・現在に至るまで、そこに携わる人達の存在があり、歴史的文脈において様々な変容を経て、様々な形で「マーシャルアート」残ってきたという事実がある。
そこには、それだけの理由や、何か人間にとっての「普遍的なテーマ」があるのかもしれない。
「暴力」や「闘争」、それらからの「生存」を志向すること、人間が生得的に持つ本能的な内面性であり、それらがどう発露されたり、現象してきたかということについて考えてみると、一人一人の人生なり生活、広くは人類史を振り返ると様々な「出来事」がある(あった)ことが見えてくる。個人的にはそのような「出来事」に対して、「どう取り組むか」または「どう向き合うか」という分野として「マーシャルアート」が一つの意義を持っていると考えている。
自身の周囲で、マーシャルアートに携わる先生、友人、生徒の方々と稽古をしたり、話しをすると、その一人一人がそこに何かを求め、自身にとっての意味や意義を見出していることが分かってくる。「楽しいから」「面白いから」やっている、というシンプルな表現をする人もいれば、稽古や練習を積むこととがその人の日々の生活や仕事、ひいては「人生」に影響しているというような表現をする人もいる。指導者、選手といった「職業」として携わる人もいる。ある国やその地域に根差したものであれば、その人にとっての慣習や文化、そういうレベルの『日常』の一部として取り組んでいる人もいる。
「マーシャルアート」を通じて様々な人たちにお会いする中で、自分なりに一つ分かったことがある。それは、そこに携わる誰もが「マーシャルアート」を通じて「強くなる」ということを志向していることである。「弱くなりたい」という動機から、何かを始めるということがあるとして、その選択肢に「マーシャルアート」が入るというのは少し想像することが難しい。
そのようなことを考える中で、ちょうど今から一年前、2025年の夏頃から、この企画について考え始めていた。
マーシャルアートについて語るときに私達の語ること
”What we talk about when we talk about martial arts”
では、「マーシャルアート」に携わる様々な方々へのインタビューや対話を通じ、そこで交わされる「言葉」を通じて、今日におけるマーシャルアートの「現在地」を記録すると同時に、広く届けていくていく試みにしていきたい。そのような仕事を通じて、多くのマーシャルアートに関わる人、そして今はまだ関わりがない人たちへも「何か」届くところがあれば幸いに思う。
